瀬戸内啓資さん、宮本祥子さんに聞く①
2021年11月に99歳で亡くなった瀬戸内寂聴さんは徳島市で生まれた。父が始めた仏具店を姉が継ぎ、今もその孫たちが営んでいる。瀬戸内啓資(けいすけ)さん(59)と妹の宮本祥子さん(55)だ。2人にとって寂聴さんはどんな存在だったのか。瀬戸内神仏具店を訪ねた。
――小さいころの寂聴さんの印象はどうでしたか。
啓資 私たちからすると、寂聴さんは祖母の妹にあたります。祖母と寂聴さんは2人だけの姉妹でしたから、当然のように仲がよかったです。
仏具店は5階建てで、下の階が店舗、上の階が居住スペースです。寂聴さんは、ひんぱんに帰ってきて、上の階で寝泊まりしていました。「店は順調なの?」と、みなさんに支持されているかを、いつも気にかけてくれました。
祥子 寂聴さんが戻ってくることが決まると、祖母に「大事な方が帰ってくるから、かしこまって、あいさつしなさい」と言われました。
私たちは部屋の前で正座し、ふすまを静かに開けて、あいさつしました。「はい、はい、大きくなったね」と寂聴さんがほめてくれます。
下の階に戻ると、今度は祖母が「上手に出来ました」と喜んでくれました。ほかの人が来ても、祖母から特別に「あいさつしなさい」と言われたことはなかったので、祖母にとっても特別な存在なんだと子ども心に感じていました。
仏具店を守った姉に頭が上がらず
――仏具店は寂聴さんの父が始めたんですよね?
啓 私たちの曽祖父で、指物師でした。神棚や仏壇を作っていて、弟子が十数人もいたそうです。
曽祖父が、弟子のなかで一番優秀な人を祖母の夫に選びました。当時は親が結婚相手を決める時代ですよね。なので、祖母は自分の意思に関係なく結婚し、店を引き継ぎました。
寂聴さんにしてみれば、好きなことをできたのは、祖母がしっかりと店を守ったからです。自由な恋愛をすることもなく店を守る祖母に寂聴さんは頭が上がらず、迷惑をかけたという思いが強かったようです。
――寂聴さんは県立の高等女学校を卒業し、東京女子大に進みます。戦時中に結婚、夫の赴任先の北京に渡り、出産し、敗戦の翌年に徳島に戻ってきました。
祥 夫と幼い娘と一緒に帰ってきた寂聴さんを、徳島駅まで迎えに行ったのは祖母です。そのとき、寂聴さんの母、つまり私たちの曽祖母の死を伝えました。徳島空襲のとき、防空壕(ごう)で亡くなりました。
その防空壕は当時、現在の仏具店の敷地内にありました。曽祖母は、「もう動けん」と言う親族を防空壕の中に置き去りにせず、焼死したと聞いています。
――徳島に戻った寂聴さんは、夫の教え子と恋に落ち、幼い娘を残して家を出ました。そのときのことは、どう聞いていますか。
寂聴さんが得度したとき、寂聴さんの姉は大泣きしたそうです。記事の後半で寂聴さんと姉のエピソードが語られます。
祥 寂聴さんは父、私たちの…
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