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日本を代表する洋画家で、文化勲章受章者の絹谷幸二さん(80)に「美術展ナビ」がインタビューしました。豊かな色彩の富士山の絵で広く知られますが、 公共空間でのアートにも精力的に取り組んでいます。3月には恐竜などを描いた作品が、初のステンドグラスとなって福井で披露されます。そのほか、美術教育の大切さから、元プロ野球の長嶋茂雄さんや松井秀喜さんとの交流についても語っていただきました。(聞き手・美術展ナビ編集班 若水浩、写真・青山謙太郎)
絹谷さんが描いた「ジュラシックえちぜん」の原画
パブリックアートは大木、土地に根付いて欲しい
―3月に「えちぜん鉄道」福井駅の改札口横に、絹谷さんが原画を描いた「ジュラシックえちぜん」(注)という大型ステンドグラスのパブリックアートがお披露目されます
絹谷「これまで壁画や、陶板レリーフの原画は描いてきましたが、大きなステンドグラスは初めてです。
普通の絵は、美術館や自宅の壁に飾られ、見たい人だけが見ます。パブリックアートは大木と同じ。公共の広場に飾られて動かない。前を通る人は誰でも目に入ります。このステンドグラスを置かせてもらった場所に根付くように願います」
―どのような点に気を使われましたか
絹谷「その地方に住む人も、そこを訪れる人も、子どももお年寄りも、絵が好きな人も嫌いな人も、すべての人の目に留まる。だから、あまり自己主張が強すぎても、弱すぎてもいけないけれど、印象に残るようにと考えました。
福井の街おこしに貢献している恐竜、(国指定名勝の)東尋坊、はぴりゅう(福井県のマスコットキャラクター)などにすべて登場してもらいました。帰った後も、福井の印象を脳裏に焼き付け、来た方にはこういうところだと指し示すように描きました。
今回の絵には、もう一人のプロデューサーがいます。4歳の孫なんですが(笑)。恐竜が大好きで、本に載っている恐竜の名前を全部覚えていたり、模型も持っています。『おじいちゃん、貸してあげる』と、プロデューサーに導かれて創らせてもらいました」
恐竜を描くのは初めて
―これまで恐竜を描かれたことは?
絹谷「初めてです。楽しいです」
―お孫さんの反応は?
絹谷「とても喜んでいます。お披露目の時に福井に行きたい、連れて行ってと言われています」
今という時代を屈託なく過ごしてほしい
―絵にはどのような思いを込めたのでしょうか
絹谷「コロナ禍とかつらいことがあるなかで、生命というものは永遠と続いている。かつて福井の原野を歩いていた恐竜たちの自然の姿を思い出して、今という時代を屈託なく明るく毎日過ごしていけるような、そういう太古の動植物の声を聞いていただけたらと願います」
サインを入れる絹谷さん。奥は「はぴりゅう」
―ステンドグラスの特徴を教えてください
絹谷「焼いた陶板も美しいけれど、ステンドグラスは光が美しい。ガラスを通して、色彩がより鮮やかに私たちの心に入ってきます。色彩は人を元気にします。黄緑野菜を食べるように、目から色々な色彩を取り込むと、脳にいい影響を与えます。
色の面と面がぶつかるところに黒い線を入れるのは私の絵の特徴です。(東京藝大時代の師)小磯良平先生からは「しつこい」と言われましたが、「そうしないと先生と同じになる」と聞き入れませんでしたが(笑)。色ガラスと色ガラスの間を、黒い金属でつなぐのは、色彩を施してから黒(の縁取り線)を入れる僕の制作手段と同じ。私の絵の原点です」
最終チェックする絹谷さん(静岡県熱海市「クレアーレ熱海ゆがわら工房」で)
絵を描くためにずっと見ていると多くを学べる
―アフレスコ(壁画技法)に取り組もうとしたきっかけを教えてください。
絹谷「私が生まれたところは奈良という古い都です。現在を生きようと思えば、その古い歴史を訪ねれば、色々そこに回答、答えが潜んでいます。
油絵は技術的には新しい世界。フレスコ画は、人類が誕生して以来、動物と人間が分かれたあたりから生まれた制作方法なんですね。
―壁画として残っていますね
絹谷「そうです。まだ紙もなく、絵の具も十分なかったと思います。
人間は強い牙や爪もなく、動物のなかで弱い存在。そういう負の世界が、私たちに多くのものを与えてくれたと思います。
絵を描くということは、物を静止させるということ。静止したものは、ゆっくり見ることができます。例えばチョウチョが飛んでいる場合、羽の様子は分からない。それを標本にしたり、絵に描いたりすると、この薄い皮膜がこのように動くのかとか、そういうことが分かる。
姿が美しい富士山でも1日中見続けることはできないんですけれども、絵に描くと1日中、富士山を見つめることができる。そうするとあの赤いのはなんだろう? あれは砂鉄だな。あの赤いのが海に流れて行って、エビが食べ、タコが食べ、マグロが食べて、私たちの体に帰って来るだろう。
ですから自然が美しくなければならないというのは自然のためだけでなく、私たち、そこをふるさととするものにとっても、美しくなければ、私たちは丈夫な、いい体が作れない。自然と人間は別々ではなく。ひとつのものの部分なんだ。そういうことを1日中、富士山を見ていると考えたり、感じたりしながら絵を描いています。
じっと見つめることの積み重ねから生まれた絵画を通じて、私は多くのことを学びました」
インタビューに答える絹谷さん
富士山を見て高い志を誓う
―「富士山」を多くモチーフとしていますね
絹谷「私が中高生の頃、東京へ行く時は、奈良から「やまと号」という夜行列車に乗って行きました。ちょうど富士山の辺りで夜が明けてくるんですね。当時は日本が敗戦から立ち上がる時期。東京に出ていくからには「富士のように高い志を持って、時間を大切にして頑張っていかないといけないなということを」秘かに誓っていたんです。
富士は日本人の心の支えになってると思うんですが、私もそうだった。神様、仏様に誓うのと同じように、富士山に向かって、誰にも言えないけれど誓っていたんです」
一番色彩が美しいのは太陽の光
―太陽も多く描かれています
絹谷「太陽はすべてのもの、花や鳥や人間に恵みを与えてくれるものであってね。この光は私たちに色彩を届けてくれる。
光線というのはあっても、色彩というのは実はないんですね。オレンジ色の光の中に入ると、色彩はパッと消えてしまう。私はスキューバダイビングをやってたんですが、海中もある深さまで潜ると色彩がなくなる。なくなったところから動物の多様性も少なくなる。
色彩というものは、生きとし生けるものにとって大切なもの。しかも、私は絵を描いているので余計大切です。
元々、人間は太陽と一緒に起き、沈むと寝るサイクルでしたが、蛍光灯ができてからリズムが変わってきた。やはり生物として、太陽の周期に帰った方がいい。自然に帰るということを太陽の光から学んだ。
蛍光灯、LED など色々ありますが、一番色彩が美しいのは太陽の光。昔の画家のアトリエは北窓が多いんですが、私のアトリエは南向きで太陽の光が入るようにしています。
色んな光が入ってくるので、色んな色彩を拾うことができる。色彩のあるところは幸せなところ。戦争になってくると色彩は奪われます。みんな同じようなカーキ色の服を着たり」
―絹谷さんの作品は色彩が美しく、元気が湧いてきます
絹谷「 色彩は元気の源。その色彩を作ってくれるのは太陽ですから。少子化問題も、今は夜遅く起きてるからね、自然のサイクルから外れてくるのでしょうね」
上手くではなく、楽しく描くことを教える
―出前授業のほか、1月末には次世代を担う新進アーティストをサポートするため「絹谷幸二芸術賞」が創設されるなど、後進の育成に力を入れています
絹谷「未来を支えるのは次の世代の人。今、会社でも高齢化している。やはり若い人が元気に思う存分できるように育てておかないと、社会も会社も続かないと思うんですよ。
出前授業では、絵の描き方を教えてうまくなるんじゃなくて、絵を描くのが楽しいんだよという感覚を知っておいて欲しいんですよね。
授業が分からなかったりで子どもが辛くなったりすると、今は保健室しかない。私たちの頃は、絵を描いている先生のところに逃げ込めば良かった。今は美術の専任の先生も少なくなっている。ほかの先生と違う生き方をしている人もいるというのを知っておいてもらえば、いい点数を取るだけが学校じゃない。そういう意味でも絵画のもっている余裕ーこんな生き方もあるんだ、好きで生きていけるーそういう世界もチラチラっと見ておくことも必要だと思います。
出前授業で 僕が帰る頃、子供たちがキャーキャー言って騒ぐんですよ。取り囲んで、帰らせてくれない時もある。そうなると、先生たちは嫉妬するんです(笑)。
それは誰でも描ける描き方を教えているからなんですよ。みんな芸大へ行かなきゃならいないような授業をしているんです。うまくなければいけないという。
ひとつの対象をうまく描けば、みんな似たり寄ったりになるんですよ。そうすると、その人が芸大に入っても大きく羽ばたけない。みんな上手いんですから。50 メートル離れたところから見ると、みんな同じに見える。
そいう常識を壊さないといけない。ただ、いったんうまくなると壊せなくなる。これが芸大の沈滞につながっている。入試の公正ということを考えると、どうしても上手い絵を選ばないといけない。これが難しいところです」
気持ちのなかに絵画性という余裕を
―可能性を見破るのは難しい?
絹谷「 いいものは、下手な絵のなかにあるんです。ピカソもいったん上手くなってから、わざと下手になっている訳ですよ。このままだと日本では認められても、世界的には難しいでしょうね。日本でピカソみたいにやっても、日本では認められない。これが難しい。お国の事情というのもありますね。
私たちは正確で清潔で、時間も守る。立派すぎる。ちょっと遅れてもいい。2005年の神戸の福知山線脱線事故のように、ちょっとの遅れを取り返そうと急ぐ訳です。それでカーブを曲がり切れずに、ああいった事故になる。
正確性ばかり振りかざしていると、世界基準から外れていく可能性があります。ゆったりした気持ちを持っていかないとね。
この正確で真面目、清潔。それは私たちの国の特長であるから、それを残しながら、自在な気持ちというか、気持ちのなかに絵画性というものが入ってくればいいと思っています。余裕というか」
ー出前授業が始まるきっかけはありましたか?
絹谷「レーガン大統領時代に、アメリカはロシアとの核競争に勝つために、物理と数学の時間を増やして、絵画と音楽の時間を減らしたんですよ。ニューヨーク近代美術館の理事長が、ニューヨーク在住の画家を組織して、日当と材料費を渡して、足りなくなった授業を補填するため、土曜日とかに学校に派遣したんですよ。
その時、私はニューヨークで展覧会をしていました。ニューヨークの五番街で2週間は僕の個展、次の2週間は僕が教えた子供との共同展をやったんですね。
日本に戻ってくると、美術を専任で教える先生が非常に少なかった。これはいけないと思い、河合隼雄・文化庁長官に出前授業を提案。その数年後、予算が付き、芸術院会員が講師となり、子供たちに教える「子供 夢・アート・アカデミー」が生まれたのです」
絹谷さんのサイン
松井秀喜にアドバイスで、翌年30本塁打
―長嶋茂雄さんとは一昨年に文化勲章を一緒に受賞されたり、合同で絵を描いたりと交流が深いですね
絹谷「長嶋 監督は絵がお好きなんですよね。びっくりしたんですけど、おうちにお伺いしたら、僕の絵がバーッと並んでいるんですね。もう感動しましてね。小中高、大学と野球部でした。
監督の場合は動体視力なんですね。私の場合は絵を描けば止まる方で真逆です。動くものと止まってるものは別々に思うんですが、川上哲治さん(元巨人監督)も「ボールが止まって見える」とおっしゃられたように、相反するものは別々じゃないんですね。例えば水と油でも。男女もそうですし、生と死でも同じですし。まったく別々と思われているものは、ひとつのものの部分であるという感覚からいえば、動体視力と静止視力というのは、別々ではない。そうやって野球もやり、絵も描いていた。
野球から学んだことがすごく多いんですね。エラーは誰でもするけれどガッカリしちゃいけない。絵のタッチも同じで、失敗したと思っても、続ければ実は成功の素だったりします」
ー 松井秀喜さんとも交流があるのですね。
絹谷「松井さんは偉いですよ。僕に野球を聞いてくるんですから。ニューヨーク(ヤンキース)に移籍して、インローとアウトローの揺れてくるボールに悩んでいて、「絹谷さん、どうやって打ったらいいですか」と聞いてきました。大リーグの選手が僕に聞いてくる、どうしたらいいかって。信じられないでしょう(笑)。
松井さんには『あなたの目線を3センチ下げろ』と言ったんです。そうしたら、次の年はホームラン30 本打ったんですよ(笑)。
絵描きの場合はどうするかと言ったら、絵描きもインローとアウトロー、右下と左下は難しいんですよ。その場合は、絵を持ち上げて、目の近くに持ってきて描くんです。
『あなたのボールは芯を食っているから、ちょっと(ボールの)下を打てば(打球は)上がる』簡単なことなんです。聞いてくる松井さんは大したものです」
◆絹谷幸二(きぬたに・こうじ)
1943年奈良生まれ。東京藝術大学大学院卒。 1971年にイタリアに留学してアフレスコ(フレスコ画)を深め、74年に当時歴代最年少で登龍門の安井賞を受賞。 1997年には長野冬季オリンピック・ポスターの原画を制作、渋谷駅などにパブリックアートを設置するほか、美術と社会を結びつける幅広い活動も行っている。2021年に文化勲章受章。
(注)「ジュラシックえちぜん」は、一般財団法人宝くじ協会の助成を受け、日本交通文化協会が企画し、絹谷さんが原画を描き、クレアーレ熱海ゆがわら工房でステンドグラス製作しています。同協会が企画・制作するパブリックアートの555作品目となります。
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